[vc_row css_animation="" row_type="row" use_row_as_full_screen_section="no" type="full_width" angled_section="no" text_align="left" background_image_as_pattern="without_pattern"][vc_column][vc_column_text]去った5、6日に南城市糸数城跡で予定していた野外音楽イベント「サウンドスケープ沖縄」が天候不良により延期になった。そのため再調整で大変だったが、周囲の方々や関係者の「お疲れ様」という労いの言葉に救われた。 このイベントは、同じ県内に住んでいてもほとんど接点の無い、他所者の私たちが南城市玉城糸数区へと足しげく通い、短期間ではあるが地域の方たちと交流して作り上げたのが特徴である。 例えば、歴史や地域について学ぶフィールドワーク以外にも、ベルリン在住のアーティスト田口行弘さんの映像作品から着想を得て、マンホールのデザインを型取りしたスタッフTシャツを制作するなどした。当初、その手法に驚いていた区長さんも、いつしか笑顔になって、配色についてアドバイスしてくださるなど、楽しんでいただいたようだ。その時に、お互いの精神的な距離がぐっと縮まったように感じ、そこがアートの力だと思い嬉しかった。 また、県内のドイツ関係者にも支えられており、彼らとの交流は私にとって、英国で経験した県人会の集まりに似ている。ドイツではスタムティッシュという模合に似た集まりがあり、毎月、同じ居酒屋で集い、語り合う習慣があるという。沖縄と欧州の類似点や感性が響きあう裏側に、歴史への関心と芸術文化に対する造詣の深さがある。そこにはお互いを助け合ったり、連携したりというユイマール精神も根付いている。 そんなローカルとグローバルの要素が掛け合わされて生まれたのが、音の野外術館サウンドスケープだ。ジャンルを超えた音楽、クラッシック、唄三線、アフリカの楽器、エレクトロニック、ヒーリング音楽などが糸数城跡の自然を舞台に共鳴する、これまでに無い経験であった。 この記事が掲載される頃には、イベントが中止か再延期になっている可能性もあるが、「雨降って、地固まる」というように、開催云々よりも、ここに至るまでのプロセスが非常に重要であったと思う。この場を借りて、ご協力いただいたり、ご参加いただいた皆様へお礼を申し上げたい。 内間 直子(アーツマネージャー) 2020年12月15日 琉球新報 文化面連載「落ち穂」より転載 [/vc_column_text][/vc_column][/vc_row]...
私が事務局長を務めるAIO(アートイニシアチブオキナワ)主催で、12月5、6日に南城市糸数城跡で野外音楽イベント「サウンドスケープ沖縄〜耳を澄まし、自然に溶け込む」の開催を予定している。ドイツ出身でAIO代表のスプリー・ティトゥス以外の出演者を含むほとんどのメンバーが、このイベントのために初めて糸数城跡を訪れ、手つかずの自然と壮大なスケールに圧倒されている。 沖縄は独特の自然環境に恵まれ、城(グスク)という先人たちが生み出した造形物が、自然の中に溶け込む姿を見ることができる。琉球石灰岩を積み上げた城壁や天に向かって美しくそびえ立つアザナの景観が特徴的な糸数城跡は、本島南部に位置する最大級の城(グスク)だが、その存在は意外と知られておらず、手付かずの自然と城壁の織りなす雄大な景色を堪能することができる。 その糸数城跡を舞台に、アーティストがその場所に特化した音を創り出すサウンドスケープ沖縄では、自然と城(グスク)の石垣によって作られた風景を楽しみつつ、観客が自由に城内を動き周り、エリアからエリアへ移動することによって、耳を澄まし、それぞれの聴こえる音を構築したり、再編成することができる音の野外美術館である。 参加者が、場所と音の持つ特性をそれぞれの視点で捉え、コロナ禍で閉じ込められた感覚を解放し、悠久の沖縄時間(ウチナータイム)を感じて欲しい。 また、地域のフィールドワークとして、南城市玉城糸数区の協力を得て、拝所巡りや歴史についても学ばせてもらった。糸数区では地域の行事として旗頭や獅子舞などが盛んなようである。沖縄に住んでいてもまだまだ知らないこと、初めて訪れる場所がたくさんある。 この機会に地元を再発見するピクニック気分で、沖縄の歴史や風景を感じて、観光や開発という名の下に、整備が進んで破壊されていく沖縄の現状を考える時間にもなればと思う。真の豊かさや後世に残したいものとは何か、訪れる人たちが改めて考えるきっかけになることを願う。 イベントの詳細は、www.soundscape.okinawaをご覧下さい。 内間 直子(アーツマネージャー) 2020年11月27日 琉球新報 文化面連載「落ち穂」より転載...
この世界には表現者と呼ばれる人達が数多く存在する。彼らは日々の些細な出来事から、社会的な大事件に至るまで、様々な物事を鋭敏に感じ取り創作活動を行なっている。小説家なら文章を書き、詩人なら詩を読む。そして、美術家は美術品を創るだろう。 そうして生み出された作品群は、作り手の社会に対する解釈であり、私達が生きる世の中そのものの縮図になるのである。 画廊は、そういった日々創り出されるモノ達を社会に結びつける場だと思う。 1981年創業の画廊沖縄は当時貸し画廊や画廊喫茶が主流であった沖縄で、企画画廊としてスタートしたギャラリーだ。沖縄をはじめ内外の作家の個展やグループ展を開催し、創業以来現在までに315回の企画展を行なっている。 オーナーである上原誠勇(うえはらせいゆう)さんは画廊設立以前に雑誌「青い海」で仕事をしており、そこで出会った画家の大嶺政寛(おおみねせいかん)さんら、明治大正生まれの沖縄を代表する画家達から薫陶を受けたそうだ。 現在では娘の田原美野(たはらみの)さんがスタッフらと共に画廊沖縄を運営。現代作家の企画展を柱に、病院などの施設に作品を貸し出すレンタルアートや、オークションなどの企画を精力的に行っている。 私達が美術品を買う理由は様々である。個人的な趣味嗜好や、投機目的。作家のサポートなどなど。そういった多面性のあるアートワールドの中で、顧客の気持ちを汲み取り作品を販売することが画廊の仕事である。しかし、それだけではない。 ギャラリストは現在の美術状況にアンテナを張り、美術の歴史を綴っていくという仕事も担っている。画廊沖縄は「沖縄美術の流れの中で、この作家や作品は残していかなければいけない」という熱い情熱のもと、作家との二人三脚で毎日歩んでいるのである。 お二人への取材を進めるうちに、美術に対する真摯な想いが言葉の端々から感じられ、私はまるで叱咤激励されているような気持ちになった。 画廊沖縄は、美術を社会へと繋げる紐のようなものである。作家や、彼らが生み出した作品を支え、それらが私たちの生活から離れていってしまわないように、しっかりと結びつけている。 〈画廊沖縄〉 住所:〒901–1114南風原町神里373番地 電話番号:098–888–6117 営業時間:11:00〜17:00 定休日:日、月、祝日休廊 ...
キュレーターとは何だろうか。西洋社会の現代美術において、その言葉の持つ意味は、日本や沖縄での認識と大きく異なる。一般的に日本では「学芸員」と訳され、美術館や博物館に勤める専門職のことを指す。ただ、私の考える「キュレーター」という職業は、美術館などの学芸員というだけでは説明しきれない。 例えば、数年に一度、国内外で開催されるビエンナーレやトリエンナーレといった国際的な展覧会を企画するのがキュレーターの仕事である。その役割は、テーマを考え、参加アーティストや作品を選び、好ましい効果を発揮するように設置や展示レイアウトを考える。更には解説や文章を執筆するなど、アートを社会へ分かりやすく、効果的に見せる橋渡しをする重要な役割である。 キュレーターは現代美術の分野だけではなく、音楽やファッション、情報化社会の中でも、認識されてきている。何らかのテーマや価値観に基づいて、物事を選択、分類、編集、提示して共有することを「キュレーション」という。そうすることによって、新たな意味や価値を生み出すことにも繋がってきており、今、沖縄でこういったキュレーターの存在意義を強く感じる。 去った9月にAIO(アートイニシアチブオキナワ)で主催したトークイベントのゲストに、私設美術館館長やキュレーターを勤めるロジャー・マクドナルドさんを招いてお話を伺った。その際にCuratorの語源にはto take care(世話をする)などがあることを語られ、なるほどと納得させられた。魅力的な施設や企画の裏側には、そういう世話をする人「キュレーター」の存在がある。 公共施設の建設に重点を置く箱物行政の、貸館としての課題を伺った際に、大切なのは箱を生かす人材や企画力だと考える。全国的に有名になった若狭公民館の館長宮城潤さんらの例を考えると分かりやすい。AIOでは、実践的なイベントを企画し、将来キュレーターを目指すきっかけづくりをしている。現在ボランティアで芸大や琉大生が参加しており、今後の展開が楽しみだ。 内間 直子(アーツマネージャー) 2020年10月27日 琉球新報 文化面連載「落ち穂」より転載...
旧・若松薬品。名前を聞いただけではアートとはなんの関係もない場所のようだ。那覇市壺屋にある年季を重ねたそのビルは、店商いをしている建物の間に溶け込むようにして佇んでいる。薬局に商品をおろす問屋をしていた時の名称「若松薬品」をそのまま残し、アトリエ、ときには展示やイベントスペースとして使われている。 建物の一階にはソファとテーブルがあり、そしてキッチンがある。前借主である故・上村豊(琉球大学准教授)さんは、よくここでコーヒーをいれてくつろいでいたらしい。現在は、「若松薬品」店主のお孫さんで、前借主のパートナーである平良亜弥さん(アーティスト)と、友人で津波博美さん(アーティスト)がシェアアトリエとして引き継いでいる。 手製の壁や倉庫棚、木製のノスタルジックな戸棚に飾られている作品達、細々とした小物に至るまで、室内を見回すとこの場所で日々を過ごしていた人たちの思い出が詰まっている。博美さんにとってこの場所は、羽を伸ばして一人になれる空間であるという。以前の上村さんがそうしていたように、今では彼女がコーヒーを飲みながらくつろいでいるのだ。 旧・若松薬品を初めて訪れたのは去年のことであった。大学で貰ったMori Yamauchiさん(陶芸家)の個展の案内とグーグルマップを片手に、ビルの中へと足を踏み入れた私を、彼女達が優しく迎えてくれたのを覚えている。 芸大に通っていても、アートとの間には壁があるのを感じていた自分にとって、アートスペースで歓迎してもらえたことは、その壁が取り除かれたようなものだった。親密な雰囲気が漂う心地のいい室内、二人の軽快な会話。この空間はアトリエや展示スペースとしてだけでなく、人々の交流の場でもあったのだ。 もしも、アートスペースが交流の場としての役割を持つことができたら、芸術はより身近なものになるだろう。旧・若松薬品は、街中のふとした場所に立っている。辺りにはコンビニもあるし、そば屋もあるし、商店もある。そんな何気ない場所で作品を制作している人がいて、作品を発表する人がいる。それが当たり前のことになれば、どれほど面白く、そして美しい街になるのだろうか。(無くなってしまうことも言及) 〈旧・若松薬品ビル〉 住所:〒902–0065那覇市壺屋1–4–4...
大切なもの、不思議で魅力的なもの。そういった品々だけに囲まれながら生活するというのが、私の幼い頃からの夢である。雑多なもので溢れかえっている現代ではなかなか難しく、もしそんな生活ができるのだとしたら、そこはきっとユートピアになるのかも知れない。 キャンプタルガニーアーティスティックファームは、糸満の地に佇む私営の美術館だ。 母屋である琉球家屋に一歩足を踏み入れると、至る所に作品が鎮座しているのが見える。玄関や応接間、和室などの馴染み深い空間には様々な種類の作品が置かれ、溶け合うようにして私達を迎えている。 世界一小さな現代美術館というだけに、建物は琉球家屋の母屋と地続きの展示室のみでこじんまりとはしているが、近現代の彫刻作品を見ることのできる県内では珍しい美術館なのだ。 美術館に展示されている作品は全て、館長である大田和人(おおたかずと)さんが長年コレクションしてきたものである。その量と質では県内トップクラスであり、トシコ・タカエズさんの陶芸作品や、波多野泉さんの乾漆彫刻作品などが展示されている。どの作品も大田さんの審美眼によって選び抜かれたものであり、彼自身の感性が反映された内容となっている。そのためか、どれも部屋の中で居心地良さそうに並んでおり、作品と大田さんの親密さを感じさせるようだ。 大田さんの作り上げた美術館は、手入れの行き届いた建物と、そこに融合する魅惑的な作品によって小さなユートピアのようである。 芸術の価値は恣意的で、とても不安定なものに感じられる瞬間がある。しかし、「アートの無い世界では生きていけない」。と朗らかに笑いながら言った大田さんは信じているのだろう。芸術には確かに価値が存在し、私たちの世界を豊かにしてくれることを。芸術を学ぶ一学生として、私は大田さんから薫陶を受けた気がした。 〈キャンプタルガニーアーティスティックファーム〉 住所:〒901−0335 沖縄県糸満市米須304番地 電話番号:090–5380–0055(大田) 営業時間:11時頃〜日没 定休日:不定休(事前に電話で予約をしてください) ...
アフリカのことわざに「早く行きたければ一人で行け。遠くへ行きたければみんなで行け」という言葉がある。Art Initiative Okinawaが目指すのは、沖縄を拠点にアートを通して海外や県外と繋がり、支え合い、補い合い、互いに刺激を与え合いながら、対話する場を生み出すことだ。それにより、点で散らばっている個々の活動を繋ぎ合わせ、沖縄からムーブメントを起こしたい。 名前の通り「イニシアチブ」を大切に考えていて、活動する人たちが自発的に、主導権を持ち、新規の構想に取り組める組織作りを考えている。沖縄は離島であるが故に、近隣諸国との貿易や欧米との交流によって、独自の文化を築いた歴史がある。小さな島だからこそ、地域に自然発生した有機的な社会集団としての「共同体」や異なる強みを持つ主体が、共通の目標のために責任と役割を分担し、共に働き成果を共有する「協働」によるプロジェクトを今、改めて見直すべきではないだろうか。 沖縄には、アーティストやミュージシャンなど、様々なジャンルで表現する人が多い。しかし、それらの活動と社会を結ぶ役割を担っている人材や団体は極めて少ない。さらに沖縄では、アーティスト自ら企画・運営するギャラリーやスペースが多いのも特徴だ。作品を売って生活するには、マーケット自体が小さいため、それだけで生活が成り立ちにくいのも要因だろう。だからこそ、県外、海外へ活動の場を広げたり、知識や経験、人脈を共有して、一緒に遠く(新たな市場開拓やニーズとのマッチング)を目指したい。 現状のコロナ禍で芸術活動そのものが停滞気味ではあるが、長期化を懸念して、海外に拠点を置く国際交流基金(ジャパンファウンデーション)などの日系機関との共催によるオンラインセミナーやワークショップ開催の需要はある。沖縄に居ながら、世界へ向けてダイレクトに発信する機会は広がっている。これから本格的にArt Initiative Okinawaの活動がスタートする。詳しくはfacebookで「AIO」と検索してみて下さい。 内間 直子(アーツマネージャー) 2020年8月21日 琉球新報 文化面連載「落ち穂」より転載...
今年3月にArt Initiative Okinawa(AIO)を立ち上げた。個人事業とは別にグループの活動として、将来的にアートセンター設立を目指している。その背景に、旧前島アートセンター(MAC)の理事、国吉宏昭さんとの出会いがある。彼は沖縄のアートシーンを支え、様々な機会を作った影の立役者だ。出会った頃の国吉さんは、どの展覧会にも必ずいて、一体何者だろうというのが私の印象だった。そのうち私の発言に「内間さん、あんた面白いね〜。今度お茶でも飲みながらゆっくり話そう」と言うのだが、次回会って挨拶をするとすっかり忘れられていた。そんなやり取りを何年も繰り返していたが、アーティスト津波博美さんの紹介で親しくなった。 当時、英国と沖縄を行き来し、国吉さんと親交のあった博美さんから「国吉さんは車が無いから、展覧会に行く時は連れていってあげて」と頼まれたからだ。彼の興味は美術以外にも舞台、音楽、映画と幅広く、そこが私と一致して、あちこち一緒に観に行ってお互いの感想を語り合った。彼の視点は鋭く、意見交換をすることで鑑賞の楽しさは2倍に広がった。 私が帰国した年にMACは解散したので、その実態をよく知らない。ただMAC主催による国際交流展「ワナキオ」の参加者から話しを聞き、事務局を担っていた関係者らの現在の活動から、人材育成や世代を超えた交流に大きく役立っていたと思う。国吉さんが亡くなり1年が過ぎたが、彼の後ろ姿を振り返り、アーティストと社会を繋げる役割とアートセンターの必要性を感じ、有志で活動している。 国吉さんのエピソードに、MACのあったビルの所有者に場所を使わせてもらう交渉をしたり、自身がギャラリーを経営していた際に画家の真喜志勉さんや金城明一さんらの展示を行なっている。アーティストらに興味を持ち、助言し、自ら企画し、人を紹介するなど、彼にお世話になった人は多い。生前、死んでも化けて出てくると言っていた彼が、大声で「ぶっ飛んでるね〜」と楽しめる企画を考えている。 内間 直子(アーツマネージャー) 2020年8月6日 琉球新報 文化面連載「落ち穂」より転載 ...
芸術と無縁だった私が積極的に関わるようなったのは、1997年にロンドンに渡り、欧州の美術館やアートシーンを目の当たりにしてからである。当時の英国はトニー・ブレアが首相になり「クール・ブリタニア」という国家のブランド戦略の下、現代アートで「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」が活躍し、音楽では「ブリット・ポップ」がヒット。映画で「トレインスポッティング」が話題になるなど、世界的に英国発の芸術文化が注目され、勢いに乗っていた時代だ。 それらの影響により、日本の社会や教育で培われた固定観念は覆され、心が解放され、生活の中にアートを身近に感じるようになった。英国で観た日本映画や展覧会などから、そういう場面を企画・運営する側として、アートと社会を繋げる役割に興味が湧いてきた。十数年を超える英国生活で外向きだった目が、原点である沖縄を見直し、沖縄の芸術文化を誇らしく思うようになっていたことも大きい。そこで、沖縄のアーティストをロンドンで紹介するために初めて企画書を書き、0からスタートした。 その活動を始めた直後に、2008年のリーマンショックで勤めていた会社が倒産。そのショックやストレスから、力を取り戻すきっかけになったのが、沖縄の音楽やアートだった。苦境を乗り越え、2011年に沖縄に拠点を移してから欧州とのネットワークを更に拡大させ、現在に至っている。沖縄は元々、海外との貿易や交流で独自の社会を築いてきた歴史があり、観光や産業の発展にも芸術文化の発展は必要不可欠と言える。 今回のコロナ禍で芸術活動の継続が困難な状況にあるが、みな創意工夫して活動再開に向け、動き出している。沖縄が国際社会を生き抜き、共に考え、対話し、多様性のある社会を実現するためにも、アートの力を活用するべきだ。ここでは、県内のアート関係者の取り組みや欧州の事例など、独自の視点で紹介していきたい。また、この大きな変化の時期に、幅広い世代へ向けて伝える機会を頂けたことを嬉しく思う。 内間 直子(アーツマネージャー) 2020年7月3日 琉球新報 文化面連載「落ち穂」より転載...